2010年02月28日

柳の影の落ちる場所

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今日も、雨が降っています。
雪交じりの雨で、今がまだ2月だということを思い知らされるような降り方です。
雨の似合う木と言えばはやり柳ですが、
さすがに2月とあってはまだじっとおとなしく、そよぐ気配さえありません。
あの柔らかな姿態を堪能するには、せめてあと一月ほどは待たなくてはならないようですね。
花だけでなく、青葉の茂りも懐かしい、寒い一日です。

さて、柳と言えば、萩尾望都の最近の作品に『柳の木』という一編があります。

(以下、ネタバレを含みます。
当該書籍を先入観なしでお読みになりたい方はご注意下さい。)


コミックス『山へ行く』の最後に収められている短編ですが、
これは紛れもなく、彼女の最高傑作の一つになるでしょう。

とは言っても、実際にはこの作品は、一見したところ寧ろ地味とも言える印象を持っています。
何しろ、たった20ページにも満たない作品ですし、コマ割りは上下のみ。
しかもその大半が、台詞のない、定点観測なのです。
彼女の他の傑作群、『ポーの一族』や『訪問者』や『半神』、
『トーマの心臓』や『イグアナの娘』や『11人いる!』 に比べたら、
本当に”何も起こらない”。

けれども、最後の数コマで、読者は今まで何気なく繰ってきたページが、
綺麗な風景写真としてなんとなく眺めていたそれらの場面全てが、
いったい1コマ、1コマごとにどれほど深く重い意味を持つものだったのかに、
突如として気付かされるのです。
それは殆ど空恐ろしいと言ってもいいくらいの体験で、
このとき私は始めて、心から萩尾望都のことを恐ろしい人だと思いました。
(そういえば、山下和美の『不思議な少年』第7巻に収められている
『会社員・T』もある意味空恐ろしかったですが、
『柳の木』には”頼るべき原作の記憶”がないので、明らかに技巧の種類が異なります。)

しかし、この作品を読み終わると同時に、実はもう一つ、
私の心に芽生え、そして以来私の心を捉えて離さなくなったものがありました。
それは、彼女はミュッセの墓碑銘のことを知っていたのだろうか、という問いです。

ミュッセ、すなわちアルフレッド・ド・ミュッセ。
言わずと知れた詩人であり、ジョルジュ・サンドの恋人でもあったことのある人。
彼の墓には、このような墓碑銘が刻まれています。

Mes chers amis, quand je mourrai,
Plantez un saule au cimetière
J'aime son feuillage époloré
La pâleur m'en est douce et chère,
Et son ombre sera légère
À la terre où je dormirai.

彼の詩、「リュシー」の一節です。
翻訳すると、以下ようになるでしょうか。

「友よ、もしも私が死んだら
墓に柳の木を植えてはくれまいか。
私は、その悲嘆に暮れた、
青白く柔らかい葉が好きなのだ。
また、私の墓の上に落ちるその影は、
私の眠るその土地を軽やかに見せてくれるだろう。」

あるいは、「ラ訳」するなら、このように。

「友よ、私が死んだら
墓に柳の木を植えてくれ
私の愛する
あの涙に濡れて枝垂れた葉を持つ
柳を一本植えてくれ
青白く柔らかなその葉が
墓の上に落とす影は
私が眠るその土地を
きっと軽やかに見せてくれるだろう
だから、ああ友よ
私が死んだら
どうか墓に柳の木を植えてくれ」

(「ラ訳」はともかくとして、)
勿論、知っていたらどうだというわけではありません。
たとえ知らなかったとしても、日本人にとって柳にお墓と幽霊はつきもの。
でも、最初からそれと知れてはつまらない。
だから・・・と、そういう発想から、あの作品が生まれた可能性は十二分にあるでしょう。
そして、読者はまんまと騙される。
私がそうだったように、(作者の目論見通り)ただ漠然と、
”彼女”はきっと柳の精で、だからこれは言葉を持たない樹の精が風景の中にある様子を、
そして時折、少しだけ関心を持って人々を眺めている様子を淡々と描いたものなのだな、
と思ってしまう。
そして、ラストシーンで衝撃を受けるのです。

でも、もしも知っていたとしたら?

私の中に、物語が生まれます。

”彼女”は、生きている間のどこかで、ミュッセの墓碑銘に触れる機会があった。
それは、むずかる子供をなだめすかして連れて行った歯医者の待合室で手に取った、
古くてよれよれの雑誌の記事だったかもしれないし
(彼女はそのページをこっそり破って持ち帰る)、
あるいは、学生の頃に外国文学の講義で教授が取り上げた一節かもしれない。
学生結婚をした、売れない詩人の夫が捨てようとしていた資料の一つが風で煽られ、
そよそよと開いたページに書いてあったのかもしれないし、
夫のスケッチブックに書き込まれていた走り書きだったのかもしれない。
そして、実は詩人である夫よりもずっと感受性が豊かだった彼女は、
その一節を読むと同時に、脳裏に鮮やかな風と白い土、軽やかな青緑の影を思い浮かべ、
そしてその見たこともない風景は、いつまでも彼女の中に残っている。
けれども、だからと言ってそれは、
自分の墓にも柳の木を植えて欲しいとかそういうことではなく、
(何しろ彼女はまだ若いのだから、死は遠いことなのだ)
ただなんとなく、理由もなしに憶えているだけなのだ。
しかし、やがて不慮の死を迎えたときに
(川に落ちて流され、発見されなかったのかもしれないし、
もしかしたらあの川のあの地点が、彼女が流された場所なのかもしれない。
流されていく彼女の目に最後に映ったのが、揺れる柳の葉影だったのかもしれない)、
彼女の脳裏に、かつて見覚えたその一節が不意によみがえる・・・。

かくて彼女は、柳の化身としてあの木の下に立つようになる。

というようなキャラクター設定をした上で、萩尾望都がこれを描いたのだとしたら。

いえ、妄想です。
でも、萩尾望都なら、絶対にないとは言い切れないかもしれない・・・。

と、ここまで考えていて、気付きました。
傑作には、つまり二種類あるのではないかと。
一つは、その作品単独で世界が完結している傑作。
そしてもう一つが、この『柳の木』のように、
骨格の力だけで読み手の中にさまざまな物語を喚起する傑作です。

『柳の木』には、これまで述べてきたように、
”物語がそうあるに至った”についての一切の説明がなされていません。
手がかりは、ラストのごく短い台詞と、
”彼女”がずっとそこにいたという事実、そして”彼女”の涙だけ。
しかし、単に「全然描かない」だけなら、誰にでも出来る。
単一の事実を述べるだけなら辞書にだって出来るし、図鑑にだって出来るのです。


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しかし萩尾望都は同じことをしながら、読者の中に強烈に物語を喚起させてしまう。
そこに、彼女の恐ろしさがあるのでしょう。

ともかくも。
『柳の木』がミュッセの墓碑銘から連想された作品だなどということはどこにも書いていないし、
そもそもあの柳は『墓』ですらないわけで、
ですからきっと何の関係もないのだと思います。
けれども、私の中で、この二つは既に強力に結びついてしまっている。

「物語というものが、作者の手を離れた瞬間に、いかに作者の意図を超えたところで何かをし始めるか。」

『柳の木』は、そうした事実の、一つの証拠なのかもしれません。


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(”不幸にも”本記事読後に作品に興味を持ってしまわれた方はこちら↓)

山へ行く (flowers comicsシリーズここではない・どこか 1)

山へ行く (flowers comicsシリーズここではない・どこか 1)

  • 作者: 萩尾 望都
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2007/06/26
  • メディア: コミック
















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2010年02月27日

花づくし

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今日は、予報にあった雨は昨夜のうちに降り尽くしてしまったのか、
思いがけなくもいい天気となってしまいました。
こうなると、梅でも見に行きたくなってしまうのが人情ですが、
どこか静かで、あまり人のいないところで・・・と、考えていて、
はたと気付いたラビット。

っていうか、うちの庭にあるじゃないの。

そうなんです。
ほんの何本かですけど、うちにも梅の木はあるんです。
(ちなみに毎年、その実で梅漬けを作っています。)
他所の花を気にする前に、まずこちらを気にしなければ。
ということで、はるばる(おおげさ)庭の一番奥の端まで行ってみました。
すると・・・。


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紅梅は、まだ固蕾。
白梅は・・・。


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紅梅よりは少し早いけれど、開花しているのはまだ数輪だけ。
そっか、それで気付かなかったのね。
毎年、その姿ではなく夜気の中を漂ってくるその香りで、
開花に気付いていたんですね。
でも、風流人なら、たとえ1輪であっても、咲けばそれと気付くものなんだろうな。

・・・。

ま、それはそれとして。
ともかくも、自宅で満開の梅を楽しめるようになるのは、まだ少し先のことみたいですね。

さて。

実はわたくし、今週も花を買いました。
(どこで?)

・・・ごめんなさいネットで買ってしまいましたー!
(あれだけ、花は出会いだからネットでは取り寄せないって言っていたのに!)

でも、だって。


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だって。


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だって。


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我慢できなかったんですもの。
ジュリアジェーン(水仙の一種)、どうしても欲しかったんですもの。


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ね?
雨上がりの黒い春の土に、映えるでしょう?
それに、水仙らしいとってもいい香りがするんです。

ただね、こうなっちゃったら白状しちゃいますけど、それだけじゃないんです。
もうひとつあるんです。
それは、こちら。


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ナルキスス・ロミエウクシー。
これも、水仙の原種のひとつなんですけど。


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ちょうど庭に咲いていたクロッカス(↓)。


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よりも、


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小さいんです!
(すみません、明日は庭掃きをします・・・。)
見えますか?
薄緑色の植木鉢に入っているのが、植え替えたロミエウクシー。
その右側に見えるのが、クロッカス。
クロッカスを親指とするなら、ロミエウクシーは小指の先です。
ほんとにその位の大きさ。
小さいとは知っていましたが、想像を上回るその小ささに、
箱を開けた瞬間、思わず声を上げてしまったほどでした。
これはもう、予想以上の可憐さです。
ああ、これが庭の一画にびっしりと咲いたら、どれほど綺麗なんでしょう。
(画像は、開ききっていないのであまりぱっとしないように見えますが、
咲いた姿にご興味のある方は、「ロミエウクシー」で画像検索してみて下さいね。)
まだ頼りないので、数年間は大きめの植木鉢に囲って増やしていく予定ですが、
いずれは地植えにするつもり。
数年後が楽しみです。
ジュリアジェーンも、ひと群れになるくらいに増えるといいな。
早咲きだから11月頃から楽しめるはずで、季節の巡りにまたひとつ待つべきものが増えました。

ちなみに、試しにこの冬以降に購入した花ばかりをずらりと並べてみたら、これこの通り。
(あっ、ジュリアジェーンが入っていない。ハゴロモジャスミンもサイネリアも見えない。)


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書くのを忘れていましたが、先週も勿論、買ってしまっています。
上の写真の、黄色いミニ水仙(ようやく値下がりしたので)が、それです。
早く庭の花が咲いてくれないと、いったいこの先どれだけ増殖を続けるのか・・・。
(と、毎年言っているような気がしますが。)
でも、きっと本格的な花の季節も、もうすぐですよね。
水仙やチューリップなどの草花が咲いて、花水木などの花木が咲いて、
牡丹や芍薬が咲いて、ユリやアルストロメリアが咲いて・・・。


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庭のミニ薔薇の一群も、かわいい新芽をたくさん出していましたし。
ま、このミニ薔薇とて、ついつい買い過ぎたり集め過ぎたり挿し木で増やし過ぎたりして、
庭にお下り頂いた鉢植えの末裔なんですけど。
ほんと、懲りない性分ですね。









ラベル:植物 水仙
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2010年02月26日

点景

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盆栽の桜の芽。


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苺とロイヤルコペンハーゲン。

窓の外には、雀の声。









ラベル:季節 果実
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2010年02月25日

日輪/十力の金剛石

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庭の水仙が、やっと少しずつ伸び始めました。

「カシオピイア、
 もう水仙が咲き出すぞ
 おまえのガラスの水車(みずぐるま)
 きっきとまわせ。」
(宮澤賢治「水仙月の四日」)

また、ぐるりと回った庭の南側には、(植えっぱなしの)グラジオラスらしき芽が。
花が咲くのはまだまだ先ですが、なんとなく嬉しい庭の息吹です。

「アンドロメダ、
 あぜみの花がもう咲くぞ、
 おまえのラムプのアルコホル、
 しゅうしゅと噴(ふ)かせ。」

ところで、今朝東の空を何気なく見たら、太陽の形がくっきり。


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一瞬、月かと思ったくらい、白い大きな円が雲の中にありました。

「お日さまを見ておりました。お日さまは霧がかからないと、まぶしくて見られません」
「うん。お日様は霧がかかると、銀の鏡のようだね」
「はい、また、大きな蛋白石の盤のようでございます」
(同「十力の金剛石」)

こうしてハローがかかった太陽を見るといつも、
宮澤賢治の描いた「日輪と山」を思い出します。
思い出す順番がいつも決まっているのが自分でも面白いのですが、
「『日輪』っていう童話、宮澤賢治になかったっけ?・・・(検索)・・・あ、絵か」
と、必ずこの手順。
そしてその後、上に上げた「十力の金剛石」や、
「まなづるとダァリヤ」などを思い出して、読みたくなって青空文庫へ。
体の中に、そういう経路が出来てしまっているんですね。
でも、その記憶の交叉はどこか詩的で、追い出す気になれません。
もしも今後、一回で「『日輪』っていう絵があったな」と思い出したとしても、
心はそれに気付かない振りをして、同じことを繰り返すでしょう。

ま、実際には、次回も本当に忘れているんでしょうけど。









ラベル: 植物 水仙
posted by rabbit at 08:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月24日

これぞ本物。

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何だと思われますか?
草?

当たらずとも遠からず。
セリ、です。
それも、スーパーで売っている栽培セリではなく、田圃の縁に生えている自生のセリ。
若菜摘みで摘む、七草の、あのセリ。

これが、おいしい、のです。
売っているセリを竹箒とするなら、
こちらは紅筆かというくらい細く、小さな株ですが、
その小さな体の内側に、香りと食感は100倍も閉じ込めているのです。
ふきのとうに負けず劣らず、こちらも強力な春の味覚。

このご時勢、自生のセリはいよいよ摘みにくくなっていますし、
また、慣れないとよく似た雑草と間違えてしまうので、
自分の手で摘むのはなかなか難しいかもしれませんが、
もしも山野草の直売所などで見かけたら、是非お召し上がりになってみて下さいね。
一番のおすすめは、胡麻和え。
あるいは、おひたし。
お好きな方はてんぷらでどうぞ。
胡麻和えやおひたしにする場合は、
生の状態での量がそこそこないと、それこそ一箸分になってしまいますが、
でも、たった一口でも、春を実感するには十分です。

ちなみに野生のセリで一番おいしい部分は、
実は、普通の感覚なら除去してしまいたくなるような根っこの部分。
だから、手に入れたものに根が残っていたら、取らずに綺麗に洗って丸ごと頂きましょう。
香味野菜には目がないラビットの、お勧めの一品です。




今日は、旧暦正月十一日。
つまり、本来七草は、今頃摘むのですよね。
だから昨夜セリが食卓に載ったのは、実に暦にかなったことなのでした。。。









posted by rabbit at 15:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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