2010年03月31日

ドーヴァー海峡/もう一つの新古今和歌集

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The sea is calm tonight.
The tide is full, the moon lies fair
Upon the straits・・・

今宵
海は静けく 潮満ちて
月は輝く 海峡に

―――マシュー・アーノルド「ドーヴァー海岸」より (和文:ラ訳)


今宵は大潮、満月です。
そして、今年になって二回目のブルームーン。

三月も末だというのに、今朝は氷が張るほどの寒さでした。
でも、そのせいでしょうか、今日は一日とても大気が澄んでおり、
おかげで夜になっても、朧月夜が身上の春の月とも思えぬような、
煌々たる月明かりの夜となりました。


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雲ひとつない墨色の夜空に、冴え渡る月。
今夜は、かすかなむら雲さえありません。


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庭には、月下に俯く水仙たちの白い顔。
その風情は、月明かりの夜に、扇を奪われて恥ずかしげに顔を伏せる古の美人を思わせます。

そう、もしも、あと100年早く水仙が日本に入ってきていたなら。
もしも、漂着という形ではなく、唐渡りの文化として入ってきていたなら。
もしも、「スイセン」という四文字の言葉ではなく、「梅」「菊」などと同じように、
和語となじみのよい2文字の名前だったなら。

きっと、水仙は、新時代の歌人たちに、多く和歌に詠まれていたことでしょう。
そして、かの新古今和歌集も、今とはまったく違った形のものになっていたに違いありません。

あるいは、もしも水仙が、俯くのではなく、向日葵のように上を向いて咲く花だったとしたら。


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その花は、月光の色。
水仙は、月から来た花であると、あるいは月光を飲み干す花であると、
そして朝露は、花に溜まった月光が結晶化したものなのだと、
ひょっとしたら、信じられていたかもしれません。


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もしも、仮に、もしかして。
ブルームーンの夜は、幸運を待ち望むよりも、
こうして少し他愛もない想像を繰り広げる方が、より似合っているような気がします。

The tide is full, the moon lies fair...

ドーヴァー海峡にきらめく月明かりは、誰かが投げた水仙の花。

今夜はブルームーン。
あなたは、何を考えて過ごしましたか?











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2010年03月30日

アイリッシュリネンのブックカバー

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数か月前に我が家にやってきて以来、ますます元気なネメシア。
あれからどんどん伸びて、ひっきりなしに花をつけています。

が、このネメシアという名前。
書こうとするたびに、ネメシス(復讐の女神)と混同してしまって困るんですよね・・・。
毎回、どっちだったっけ?といったん真剣に考えてから書いてます。
全然違うものなのにね。
アガサ・クリスティーの功罪だな、これは。

ところでみなさん。
みなさんは、ブックカバーって使いますか?
(使う?)
ラビットは、あまり使いません。
家でもカフェでも電車でも、本はたいてい素顔のまま。
新刊書店でも、購入数が一冊でない限り、カバーは断ってしまいます。
エコ云々じゃなくて、どうせすぐに外してしまうから。
(”一冊〜”というのは、一冊でカバーを断ると、袋に入れられてしまうため。
書店で新刊書を一冊だけ買うときは、殆どの場合すぐに読みたいときなので、
袋に入れられてしまうと困るのです。)


ところが、こちらをご覧下さい。


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以前、中西のリネンのハンカチのことを書きました。
これ、(中西ではありませんが)実はアイリッシュリネンのブックカバーなんです。

繊細なステッチに、


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同色のリネンレースのあしらいも美しく。


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もう完全に、ラビットのツボ。

そう、わたくし、このブックカバーを使いたいがために、ブックカバーを使おうとしております。
考えてみれば、以前も同じことをしたような憶えがあります。
そのときは、赤とベージュのツートンで、革でした。
その前は水色で、レイジースーザンでした。

文房具好きの心理、なんでしょうが、いかがでしょう、この本末転倒さ加減。
まったくもって困ったものですね。

なお、このブックカバー、実はたまたま共布のバッグもあったりします。


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春から夏にかけて、生成りのアイリッシュリネンのバッグは涼しげで季節にぴったりの素材。
ただ、バッグの方はこのままではちょっと寂しい感じがするので、
レース糸で小さなモチーフを編んで、気分に応じて飾りにしてあげようかと思っています。

それと、ここまでの流れとは全然関係ありませんが、リネンといえば、こちら。


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これ、とっても優れものなんです。
リネンを粗く織った布巾なんですけど、洗剤をつけなくても、
水で濡らしたこの布巾でこすると茶渋が綺麗に取れるんです。
しかも、研磨作用がないので、食器に傷がつきません。
半信半疑で購入したのですが、いやはや、なかなか。

ということで、ラビットは単なるリネン好き、ということが判明した記事でした。

そううそう、今日、30日の夜は今月二回目の満月、ブルームーンです。みなさま、どうぞお忘れなく。
(よかった、今日は短く済んだ。)



【追記】
先日の記事の「水仙は菊の弟」の件ですが、
どうやら北村季吟という人の俳書「山之井」なる本に書かれているみたいです。
でもいったいどこで見たのか・・・。
誰かの何かに引用してあったのを、いつだったか見たか読んだかしたんでしょうね。
あやふやでごめんなさい・・・。









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2010年03月29日

金の斧、銀の斧

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絶版本を探すのも、今はネットが主になってしまって、
確かに便利だし、早く確実ではあるのだけれど、なんだか物足りないような気もする。
学生の頃、神保町に出かけては自分の足で探し回り、ようやく探し当てたときの、あの天にも昇る気持ち。
一瞬雷に打たれたように目を瞠った後、書棚に伸ばす手の早いことと言ったら・・・。
そしていよいよわがものにすると、帰るのも、電車に乗るのさえも待ちきれずに、
「さぼうる」に駆け込んだあの暑い夏の日の午後。
本を探すことに夢中になって、自分が半ば貧血を起こしかけていることにも気付かず、
座って初めて自分の体力が限界になっていることに気付いて頼んだ、いつもは飲まない甘い飲み物。
着ていたコットンジャージーのノースリーブのワンピースの模様、
羽織ったカーディガンの裾のストリングの感触、
外との温度差に戸惑う、ストラップつきミュールの先から覗く爪先。
火照った心身にしみ込んでいくフレッシュストロベリーミルクは甘く冷たく、
グラスの形は逆さになった円錐形。
口に含んだストローの感触、飲み干した底に残った氷の形、
そしてどきどきしながら袋から取り出し、そっと開いた、古びて柔らかくなったページの脆い質感。

そうやって探し当てた本は、手元にある本の中でも、常に別格の扱いである。

画像のフィニィの古本も、私の中のいわゆる”別格”に属する本だ。
特にハードカバーの二冊は、思い入れが深い。

フィニィとの最初の出会いは、「レベル7」。
「レベル3」の誤植ではない。
宮部みゆきの「レベル7」に、
”レベル7”という言葉の謎についてあれこれ意見を出し合う場面があり、
その中で、フィニィの「レベル3」のことに言及しているのである。
(考えてみれば、私にはそういうパターンが結構多い。
つまり、物語の中で触れられている物語に副次的に興味を示し、次の鉱脈にするというパターンが。)

「図書館で見かけたような気がするがね」
「それって、レベル3のことでしょ。でも、いまどきの若い女の子がいきなりフィニィから入るかな」

確か、こんな会話だった気がする。

いったい、どんな本なんだろう?
私の好奇心は疼いた。
けれども、そうやって気になりながらも、結局出会えないまま時は流れ、
やがて大学生になったとき、書店の棚で「ふりだしに戻る」に巡り合った。
忘れもしない、”フィニィ”という名前。
私はそれに飛びついた。

初めて「ふりだしに戻る」を読んだ時のあの感じは、忘れられない。
ノスタルジーという言葉では表しきれない、過去への強烈な愛慕。
それは、出会ったことのない概念だった。
種々の情報によると、同著者の「ゲイルズバーグの春を愛す」も絶品だという。

数年の時を経て、私の中の「レベル3」への思いが再燃する。
今度は以前よりも強烈だ。
何しろ、「ふりだしに戻る」を読んでしまっているのだ。

平安時代、「源氏物語」に恋い焦がれた当時の少女たち。
その気持ちが、私には少しだけわかるような気がする。
この世には、心をとりこにしてしまう「源氏物語」という物語があるらしい。
けれども、どれだけ焦がれても、手に入る当てはまったくない。
都にいるのならばまだしも、国守の娘として、地方に住んでいるのであれば尚更だ。
頼りは、出仕している親類の女性や、公卿のだれそれの北の方となった異母姉だけ。
か細い伝手である彼女等に、もしも持っている人がいるという噂を聞いたら、
貸して欲しいと頼んでくれないかと文を書いて書き送る。
そう、万に一つの幸運に望みをかけて・・・。

「更級日記」の著者、菅原孝標女は、その典型と言ってもいいだろう。
何しろ彼女は、地方から都に戻った際、念願の「源氏物語」を全巻手に入れた嬉しさのあまり、
新しい住まいにも、三年間分かれていた実母との再会にも、まるで気もそぞろなのだから。

ともかくも。

時代は変わっても、物語を求める心に、変わりはない。
現代が昔より遥かに物語が入手しやすくなっているとは言っても、
”手に入らないものは徹底的に手に入らない”という状況は、確実に存在する。
それと、入手に苦労した物語ほど、巡り合えたときの喜びが大きいという事実も。

私は、よほどのことがない限り、目的の本を図書館で探すことは避けている。
理由は簡単だ。
私は、その本が自分のものにならない限り、内容が頭に入らないのだ。
いったいどういう心理なのかわからないが、同様の理由で、立ち読みも苦手である。
また、万一読めたとしても、それはそれで別の問題が生じてしまう。
もしかしたら、こちらの方がより問題かもしれない。
つまり。
図書館で探さなければならないほど手に入りにくい本だということは、
イコール、それだけ”手に入らない、ゆえにますます読みたい”のボルテージが
殆ど限界に達している本である。
ということは、もしもそれが返却しなければならない本だとしたら、
今度は手元から手放すのが苦痛になるのは目に見えているだろう。

私は、他のものには殆ど執着を示さないけれど、書物だけは別である。
(だからこそ、家が本に占拠されて困るのだけれど。)
その「世界」が、いつでもそこにあるという喜び。
また、私にとって、「本」「物語」とは、「情報」ではない。
「その一冊」というアイデンティティを持った、殆ど個体識別が出来る「存在」なのである。
その証拠に、いくら手元の本が繰り返し読まれたためにぼろぼろになろうと、
そして同じものの新品が容易に入手可能であろうと、私は本を買い直すことは決してしない。
最初に手に入れたそれが、すべてである。
上のフィニィの二冊にしたって、もしも「新品をただであげるよ」、と言われても、
私はきっとそれを丁重にお断りするだろう。
不慮の事故で散逸してしまった本を新たに買い直す時でさえ、
なんだか後ろめたい気持ちをぬぐえないのだから。
私にとって「本」とは、「金の斧と銀の斧」なのだ。

本探しは、ハンティング。
パソコンの前に座っているだけでは、あるいは届くのを待っているだけでは、
獲物を仕留める本当の喜びは味わえない。
逃した獲物には二度と出会えない、という悔しさの真髄も、ハンティングに出かけてみなければわからない。
「本」は、情報ではない、「唯一無二の個体」なのだ、少なくとも、私にとっては。

とか言いながら、ま、ネットという文明の利器に頼ることは、
もう決してやめることは出来ないのだけれど。
それはそれで、大切な手段だし、とかなんとか。


軟弱ですね。


そんなこんなで、今日もまた長くなってしまいました。
今日こそは、短くするつもりで書き始めたはずなのですが・・・。
(だからほら、写真も一枚だし。)

でもそれなら、本を話題に選ぶということからして、既に間違っているわけで。
ということに、今気付きました。

明日は、短くします・・・(多分)。









ラベル: ラビット
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2010年03月28日

「私の机」

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先日咲き始めた木瓜の花。
あれから、次々とほころんできています。


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同じ木の中に、色違いで何色も咲くのが面白いですね。
花ごとに色素を作る酵素の遺伝子の転写の起こり方が違うのか、
それとも光の当たり方や花のつく位置に関係があるのか。
三色スミレの紫と黄と白や、水仙の黄とオレンジのようなきっぱりとした配色もいいですが、
こうした和の花の優しくぼかした色味は、そのまま色無地に手描き一輪の加賀友禅か、
同じく手描きで古典柄の訪問着にでもしたくなってしまいます。
あるいは、そのまま帯留めか髪飾りにしてもいいくらい。
(もしかしたら洋服でも、コットンのワンピースの飾りにしたら似合うかも。薔薇の代わりに。)
プリザーブドフラワーで、出来ないかしら?
でも、そこをあえて布地で表現するから、粋なのかもしれませんね。

ところで先日、「青空文庫」で何気なく岡本綺堂のエッセイを読んでいたら、
こんな行(くだり)に行き会い、思わず笑ってしまいました。

もう一つ、これは年来の習慣でしょうが、わたしは自宅にいる場合、飯を食うときのほかは机の前を離れたことは殆どありません。読書するとか原稿を書くとかいうのでなく、ただぼんやりとしているときでも必ず机の前に坐っています。鳥でいえば一種の止り木とでもいうのでしょう。机の前を離れると、なんだかぐら付いているようで、自分のからだを持て余してしまうのです。妙な習慣が附いたものです。
(岡本綺堂「私の机」より)

だって、これ、まるで私のことなんだもの。
そうなんです。
ラビット、実は定位置が机の前。
冬でも、(あるにもかかわらず)炬燵じゃなくて、机と椅子が基本ですし、夏場は言うに及ばず。
たまに、自分でも可笑しくなります。

でも、それなら、せっかくだから、
綺堂になぞらえて私の「私の机」のことをちょっとご紹介しようかな。
以前から「別冊ラビットカフェ」をご覧下さっている方は、もしかしたらお気づきかもしれませんが、
掲載する画像の背景に、よく淡い木目のテーブルが映っていることがあります。
それが、そのものズバリ「私の机」。
実はこれ、三年半ほど前に一から自分で選んで買い求めた、初めての机なんです。

とは言っても、何か特別な机というわけではありません。
軽井沢の一刀彫りとか、ケヤキの一枚板だとか、
モリスのティータオルを敷きたいからどうしてもヘップルホワイトじゃないと嫌だとか、
チッペンデールだとか(それはないか)、
そういうこだわりがあって買ったのならかっこいいのですが、
そうではなく、まあ要するに、岡本綺堂と同じで、
自分の身の丈にあった机が欲しかったというわけです。
というのも、それまで勉強や作業に使っていたのは、
子供の頃に買ってもらった学習机から一切の装飾を取り除いたものか、
あるいはお下がりのスチールの事務机、あるいはこたつテーブルなど、
身の回りに既にあったものばかり。
それに、自分の体の方を合わせて使用していたんですね。
でも、あるときついに使い勝手の悪さに我慢出来なくなりまして。
理想の作業環境を生み出してくれる机が欲しくなった、というわけなのです。

そして、思い立ったら”まてしばし”、がないのがラビットのパターン。
早速机選びにかかりました。
条件となったのは、まず、テーブルが広いこと。
ある程度の高さがあること(無駄に姿勢がいいので、低い机が疲れるのです)。
そして、シンプルで、移動しようと思ったらそれが簡単なこと。
運搬の都合を考えると、出来れば組み立て式なこと。
(こう見えて、ドライバーやスパナを使って組み立て作業をするのはお手の物です。)
必要なのは、資料や本を広げ、かつデスクトップのパソコンが無理なく使える幅と奥行き。
ただし、自室(というか、昼間の居室である書斎みたいな部屋)の、
机を置けるスペースに収まりきること。

実際に座って確かめたかったので、通販は論外。
いくらサイズを測って予測しても、体感にしっくり来ないことがままあるので、危険は冒せません。
自分の足でいくつか家具センターを回り、そしてようやく、最後に選び出したのが、
今使っている机、というわけです。
結論から言うと、完璧理想にぴったり、というわけには行きませんでしたが、
(好みの硬さの椅子とあわせて予算以内に収めることも大切だったので)、
まあ、まずまずの費用対効果で、条件をクリアするものを見つけることが出来ました。
上にも書いたように、完璧理想というわけではないけれど、
それでも未だに「机が欲しい・・・」とならないということは、
相性がよかったんでしょうね。

ということで、この机のプロフィールを申し上げますと、
奥行き600mm、幅1200mm、高さ700mm(高さは若干調節がききます)、
テーブルの板の厚さは45mmで、素材は合板。
足はスチール製で、組み立て式。

欲を言うなら、奥行きがもっと欲しかったのですが、それはちょっと諦めました。
(数倍のお金を出せば手に入ったのですが、そこまでする勇気は。。。それにその机、
あまりにも重厚でどっしりとして、なんだか重役の机みたいだったんです。
そんなに大げさなものはね、さすがにね。)

まあなんですか、正直言いますと、実は一番いいのは、ダイニングテーブルなんですよね。
広さといい、高さといい。
理想なの。
ほんとに。
でもねぇ、、、この部屋にダイニングテーブルを置くだけのスペースは、
さすがにないですしね。
あれって、ダイニングにあるからそこそこの大きさに見えるけど、
普通の部屋に持ち込んだらきっと物凄く大きいはずだから。。。

ということで、今日はラビットの止まり木をご紹介してみました。
なお、本家・岡本綺堂の「私の机」は、こちらからどうぞ。
ちょっとあれかな、机止まり木化同好会でも作りたいような気分ですね。

以上、今日も定位置にてやすらいでいるラビットでした。


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2010年03月27日

柳と桜/陰と陽

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今日、出かけた先で見上げた並木道の桜。
ラビット宅周辺よりも1、2℃気温が高いらしく、ほんの2、3輪ですが、
花びらがほころびかけていました。
この週末で本格的に咲き始めるかな・・・と思いきや、明日はまた寒くなる予報。
桜色の空を見上げるのは、どうやら、もう少しだけお預けのようです。
でも、いよいよ桜の開花が秒読みになったということは・・・。

ということで、帰りに、近所のお寺に立ち寄りました。
目的は、こちら。


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そう、枝垂れ柳なんです。
以前、このお寺の境内に桜を見に来たとき、花も勿論素晴らしかったのですが、
同じ境内に植えてある枝垂れ柳の風情がいたく気に入ってしまいまして、
それ以来、毎年芽吹きを楽しみにしているラビット。
「桜を見に行ったときに綺麗だった」という記憶がキーとなり、
桜の開花を目印に、足を運ぶことにしています。
ちなみに画像のこちらは、境内ではなく駐車場の方に植えてある柳ですが、
(今日は境内に足を伸ばすのは遠慮しました)
遠目にも淡い萌黄色が揺れているのが見えたので、期待に胸膨らませつつ近付いてみると・・・。


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折からの風に、そよそよと。
期待通り、柔らかな芽が一斉に芽吹き、
そのせいで重みを増したしなやかな枝が優美に揺れています。


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なんて綺麗な緑。
柳の木は、遠目に見ると、なんとなくおどろおどろしいというか、
まあ幽霊が似合う木というくらいですから、
あまりいいイメージを持たれない感がありますが(怪談にも幽霊に柳はつきものですね)、
近くで見ると、本当に綺麗なのです。
今の芽吹き初めもいいですが、あと数日して、この蕾が細かな花を咲かせる頃も綺麗ですし、
花が終わっていよいよ柔らかな葉が萌え出して来る頃も、とても優しい風情があって。
先日ミュッセのことを少し書きましたが、
彼が自分のお墓に柳を植えて欲しいと言った訳も、よく分かるような木がします。
(ミュッセと柳の木の記事はこちらからどうぞ。)

でも、皆が桜、桜とわくわくしているときに、よりにもよって真反対の柳に心惹かれているなんて、
そんな天邪鬼はラビットくらいですよね・・・。

ところで、今「柳は幽霊の似合う木」と書きましたが、
似合うというよりも、寧ろ、つい出てきてしまう、という感じみたいですね。
Wikipediaによりますと、

陰陽道的には、柳は枝がよく動く=「陽」の性質を強く持つ存在であるから、それを相殺するために、「陰」の存在である幽霊が出ると解釈される。しばしばこれと対照的に「桜が陰であるため、その下で陽気に花見をする」という解釈を引き合いに出して説明される。

ということらしいです。
なるほど。
でも、もしもそうだとしたら、じゃあ柳の木と桜の木を一緒に植えておけば、バランスがいいのね?
いえ、というのも、この駐車場の柳の木の真横に、実は桜の木も植えてありまして。


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ご覧の通り、枝と枝が絡みあっているものですから。
もしかしたら、陰陽を相殺する目的で、こういう植え方をしているんでしょうか。
んー、でも、横に百日紅(陰の木)も植えてあるしねー・・・。
あまり関係ないのかしらね。

でも、境内に植えてある桜と柳は、きっと陰陽道的にちゃんと意味のある配置になってるんでしょうね。
と、信じて。

なお、このお寺は真夏の百日紅も、それは見事なのです。
夏になったら、ご紹介しますね。

いずれにせよ、この調子ですと、こちらのお寺で桜が満開となるのは、
ちょうど潅仏会の頃になりそうです。
桜の下で頂く甘茶、これもまた、風情がありそう。

さて、家に戻ってみると、こちらで今一番元気がいい庭木は、どうやら椿のようです。


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でも、八重の椿の蕾って、近くで見るとなんか迫力・・・。


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玄関前に続く小道の横の花壇には、畳一畳分ほどの地面に、
一斉にアルストロメリアが芽を出していました。
(庭掃きのことは、もう何も言うまい。)
こんなに小さいのに、私の腰より上の高さくらいまで茂るようになるんだものね。
植物って、すごい。
二酸化炭素と太陽と水と、土の中の僅かな養分だけで、どうしてあんな風に育っていくのか、
いくら理屈や理論を知っていても、やっぱり納得がいかないというか、
その不思議さにたまに感動してしまいます。
それを一番感じるのは、春から初夏、電車に乗ってぼんやり車窓を眺めているときかしら。
昨日より今日、今日より明日、と、物凄い勢いで育っていく緑を見ていると、
なんだか空恐ろしいような気持ちになってしまうのです。

あ、それで思い出しました。
たしか、神社の杜のように、注意深く人の手の入っている森林は、
一般的な森林に比べて数倍の二酸化炭素固定能力があるんですって。
何かで聞いた覚えがあります。


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このアルストロメリアの咲くところには、季節が変わるとまた何か違う花が咲くのよね。
今、庭のあちこちで満開になっている水仙のあたりも、
その花が終わった頃に何かちょっと陽気な初夏の花が芽を出して来るはずだし。
我が家の庭では、花たちが自主的に土地のシェアをしてくれるので助かってます。
(単にほったらかしとも言う。)

ちなみに、ジュリアジェーンはついに花の終わりを迎えてしまいました・・・。
昨夜の濃い香りは、最後の輝きだったようです。
そういえば、梅もそろそろ終わりみたい。
庭に、あまり香りがしません。

梅の香りで思い出しましたが、ちょっと珍しい梅の香水、持っているんです。


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随分昔に偕楽園に梅を見にいったとき、記念に買っていただいたもの。
梅の花のエキスを使っていて、ただ残念ながら、
ヒヤシンスや水仙、ジャスミンやローズやスズランなどの香水と違って、
本物に近い花の香りはしないのですが、
それでも、どこかふと梅の花を思い出させるような、不思議な香りです。
実際に使ったことはありませんが、持っているだけで、なんとなく優雅な気分に。

それにしても・・・今日は、二度も記事を書いている割には、内容はとりとめもなく。
でも、柳の木の芽吹きのニュースを、どうしても新鮮なうちにお伝えしたかったので。
柳の木については、また後日記事を書くこともあるかもしれませんね。

J'aime son feuillage époloré
La pâleur m'en est douce et chère.


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花もいいけど、葉も同じくらい好き。
葉桜の君に、ラビットは大いに同意します。









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