2010年04月04日

あなたの愛する庭に

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花の季節が近づくと、開いてみたくなる一冊の本があります。
それは、「あなたの愛する庭に」(IN YOUR GARDEN)。
ヴィタ・サクヴィル=ウエストによる、ガーデン・エッセイです。

とは言っても、ガーデニングの参考にするわけではありません。
勿論、本書にはガーデニングに関する実践的なアイディアや知識が豊富に盛り込まれています。
それもそのはず、彼女は英国一美しいと言われる、
シシングハースト城のホワイトガーデンの造り主なのですから。

でも、私は所謂”ガーデニング”愛好者ではありません。
確かに花は好きですし、花の季節になると、うちの庭には花が咲き乱れます。
けれどもそれは、単に行き当たりばったりな”花増やし”の結果に過ぎず。
なにせ、いいな、と思った花を買ってきたり貰ってきたりしては、
あとは植物たちの旺盛な生命力にまかせ、
彼らに好き放題にさせているだけなのですから・・・。
これはどう見ても、”ガーデニング”ではありませんね。
(まあ、さすがにちょっとくらいは、考えてはいますけど。でもほんとにちょっとだけです。)

なのに、なぜこの本を読むのか?
答えは簡単。
ヴィタの文章が、実にチャーミングだからです。

たとえば。

・・・このバラこそ、エグランタインの名でよく詩に登場するバラだ―――もしも詩がお好きならだけど。ええ、もちろん、ミルトンがエグランタインと呼んだのは、ほかの植物―――たぶんハニーサックルか何か―――だったようだ。
 ・・・スイートブライアかブドウか
 からみついたエグランタインか・・・

でも、だったらどうだと言うの?物知り顔に間違いをあげつらうより、もう少し利口になってはどうだろう。ミルトンの詩をヒントに、ハニーサックルとスイートブライアの混植の生垣を作るのだ。・・・

こんな調子で、ともすると嫌味になりがちな薀蓄を逆手にとって、
ユーモアたっぷりの、そしてそれにもまして魅力たっぷりの、
実践的なガーデニングのアイディアにしてしまうのです。
(この後に続く文章で、非常に具体的な生垣の作り方を彼女は書いています。)
しかも、口だけじゃなく、手もちゃんと動かしている。
彼女自身、英国貴族出身という出自をものともせず、
自ら泥にまみれてガーデニングを心から楽しんでいます。

いいな、と思う。
彼女が、「ダロウェイ夫人」の著者、
ヴァージニア・ウルフの同性の恋人だったというのも頷けます。
とっても魅力的な女性だったに違いありません。
(ちなみに、ヴィタには異性の夫もいましたので、念のため。)
そもそも、彼女自身がベストセラー作家でもあり、詩人でもありました。
彼女の美に対する稀有な感覚は、生涯多方面にわたって発揮されたのでしょう。

さて、ガーデニングの本なのに、(私が)全然ガーデニングの参考にしていない本といえば、
日本語で”ガーデニング”と言うときとはちょっと意味合いがずれるのですが、もう一冊ありました。
それは、「サラ・ミッダのガーデンスケッチ」(IN AND OUT OF THE GARDEN)。


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確か、小学生の頃、近所のデパートのサンリオショップに置いてあったのに一目惚れし、
誕生日かクリスマスを待って買ってもらった洋書です。
一目惚れ、洋書、という言葉からもお察し頂けるかと思いますが、
当時はこの本が何について書かれた本かなんて、全く思案の外。
完全に、「絵の綺麗な本」という認識しかありませんでした。


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ご覧の通り、日本語テキストもついてはいたのですが、
それをちゃんと読んだのは、だいぶ後になってからです。
でも、読んでみると思いがけず面白かったりして。
西洋野菜やハーブの使い方がたくさん載っているので料理の参考になりますし、
巻末の、植物のコスメ的な利用法のところも非常に魅力的。
(この本には、主に家庭菜園や果樹園のことが書かれています。)
当時はハーブの使い方の情報なんてあまり出回っていなかったため、後になって意外と重宝しました。
結果オーライですね。
ただ、やっぱり今でもこの本を開くのは、
実践利用よりも、綺麗な絵が見たくなったときの方が多いんですけど。

ヴィタも、サラも、よもや自分の著書が、時代を経た遥かな東洋で、
こんな読まれ方をするとは思ってもみなかったでしょう。
ヴィタのクレマチスの使い方なんて、あまりにも魅力的なので、
たまには、参考にしようかな、とも思うのですが。


ま、そのうちにね。


ということで、今日はガーデニング(?)の本を二冊、ご紹介しました。











ラベル: 季節
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2010年03月29日

金の斧、銀の斧

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絶版本を探すのも、今はネットが主になってしまって、
確かに便利だし、早く確実ではあるのだけれど、なんだか物足りないような気もする。
学生の頃、神保町に出かけては自分の足で探し回り、ようやく探し当てたときの、あの天にも昇る気持ち。
一瞬雷に打たれたように目を瞠った後、書棚に伸ばす手の早いことと言ったら・・・。
そしていよいよわがものにすると、帰るのも、電車に乗るのさえも待ちきれずに、
「さぼうる」に駆け込んだあの暑い夏の日の午後。
本を探すことに夢中になって、自分が半ば貧血を起こしかけていることにも気付かず、
座って初めて自分の体力が限界になっていることに気付いて頼んだ、いつもは飲まない甘い飲み物。
着ていたコットンジャージーのノースリーブのワンピースの模様、
羽織ったカーディガンの裾のストリングの感触、
外との温度差に戸惑う、ストラップつきミュールの先から覗く爪先。
火照った心身にしみ込んでいくフレッシュストロベリーミルクは甘く冷たく、
グラスの形は逆さになった円錐形。
口に含んだストローの感触、飲み干した底に残った氷の形、
そしてどきどきしながら袋から取り出し、そっと開いた、古びて柔らかくなったページの脆い質感。

そうやって探し当てた本は、手元にある本の中でも、常に別格の扱いである。

画像のフィニィの古本も、私の中のいわゆる”別格”に属する本だ。
特にハードカバーの二冊は、思い入れが深い。

フィニィとの最初の出会いは、「レベル7」。
「レベル3」の誤植ではない。
宮部みゆきの「レベル7」に、
”レベル7”という言葉の謎についてあれこれ意見を出し合う場面があり、
その中で、フィニィの「レベル3」のことに言及しているのである。
(考えてみれば、私にはそういうパターンが結構多い。
つまり、物語の中で触れられている物語に副次的に興味を示し、次の鉱脈にするというパターンが。)

「図書館で見かけたような気がするがね」
「それって、レベル3のことでしょ。でも、いまどきの若い女の子がいきなりフィニィから入るかな」

確か、こんな会話だった気がする。

いったい、どんな本なんだろう?
私の好奇心は疼いた。
けれども、そうやって気になりながらも、結局出会えないまま時は流れ、
やがて大学生になったとき、書店の棚で「ふりだしに戻る」に巡り合った。
忘れもしない、”フィニィ”という名前。
私はそれに飛びついた。

初めて「ふりだしに戻る」を読んだ時のあの感じは、忘れられない。
ノスタルジーという言葉では表しきれない、過去への強烈な愛慕。
それは、出会ったことのない概念だった。
種々の情報によると、同著者の「ゲイルズバーグの春を愛す」も絶品だという。

数年の時を経て、私の中の「レベル3」への思いが再燃する。
今度は以前よりも強烈だ。
何しろ、「ふりだしに戻る」を読んでしまっているのだ。

平安時代、「源氏物語」に恋い焦がれた当時の少女たち。
その気持ちが、私には少しだけわかるような気がする。
この世には、心をとりこにしてしまう「源氏物語」という物語があるらしい。
けれども、どれだけ焦がれても、手に入る当てはまったくない。
都にいるのならばまだしも、国守の娘として、地方に住んでいるのであれば尚更だ。
頼りは、出仕している親類の女性や、公卿のだれそれの北の方となった異母姉だけ。
か細い伝手である彼女等に、もしも持っている人がいるという噂を聞いたら、
貸して欲しいと頼んでくれないかと文を書いて書き送る。
そう、万に一つの幸運に望みをかけて・・・。

「更級日記」の著者、菅原孝標女は、その典型と言ってもいいだろう。
何しろ彼女は、地方から都に戻った際、念願の「源氏物語」を全巻手に入れた嬉しさのあまり、
新しい住まいにも、三年間分かれていた実母との再会にも、まるで気もそぞろなのだから。

ともかくも。

時代は変わっても、物語を求める心に、変わりはない。
現代が昔より遥かに物語が入手しやすくなっているとは言っても、
”手に入らないものは徹底的に手に入らない”という状況は、確実に存在する。
それと、入手に苦労した物語ほど、巡り合えたときの喜びが大きいという事実も。

私は、よほどのことがない限り、目的の本を図書館で探すことは避けている。
理由は簡単だ。
私は、その本が自分のものにならない限り、内容が頭に入らないのだ。
いったいどういう心理なのかわからないが、同様の理由で、立ち読みも苦手である。
また、万一読めたとしても、それはそれで別の問題が生じてしまう。
もしかしたら、こちらの方がより問題かもしれない。
つまり。
図書館で探さなければならないほど手に入りにくい本だということは、
イコール、それだけ”手に入らない、ゆえにますます読みたい”のボルテージが
殆ど限界に達している本である。
ということは、もしもそれが返却しなければならない本だとしたら、
今度は手元から手放すのが苦痛になるのは目に見えているだろう。

私は、他のものには殆ど執着を示さないけれど、書物だけは別である。
(だからこそ、家が本に占拠されて困るのだけれど。)
その「世界」が、いつでもそこにあるという喜び。
また、私にとって、「本」「物語」とは、「情報」ではない。
「その一冊」というアイデンティティを持った、殆ど個体識別が出来る「存在」なのである。
その証拠に、いくら手元の本が繰り返し読まれたためにぼろぼろになろうと、
そして同じものの新品が容易に入手可能であろうと、私は本を買い直すことは決してしない。
最初に手に入れたそれが、すべてである。
上のフィニィの二冊にしたって、もしも「新品をただであげるよ」、と言われても、
私はきっとそれを丁重にお断りするだろう。
不慮の事故で散逸してしまった本を新たに買い直す時でさえ、
なんだか後ろめたい気持ちをぬぐえないのだから。
私にとって「本」とは、「金の斧と銀の斧」なのだ。

本探しは、ハンティング。
パソコンの前に座っているだけでは、あるいは届くのを待っているだけでは、
獲物を仕留める本当の喜びは味わえない。
逃した獲物には二度と出会えない、という悔しさの真髄も、ハンティングに出かけてみなければわからない。
「本」は、情報ではない、「唯一無二の個体」なのだ、少なくとも、私にとっては。

とか言いながら、ま、ネットという文明の利器に頼ることは、
もう決してやめることは出来ないのだけれど。
それはそれで、大切な手段だし、とかなんとか。


軟弱ですね。


そんなこんなで、今日もまた長くなってしまいました。
今日こそは、短くするつもりで書き始めたはずなのですが・・・。
(だからほら、写真も一枚だし。)

でもそれなら、本を話題に選ぶということからして、既に間違っているわけで。
ということに、今気付きました。

明日は、短くします・・・(多分)。









ラベル: ラビット
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2010年03月25日

葉桜の君と野菜人格

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盆栽の葉桜。

不思議なもので、お正月用の啓翁桜には雅なロマンを感じるのに、
(暮れの頃に頂く啓翁桜の蕾の切り花は、
早過ぎる花を喜ぶことに少し罪の意識を覚えながらも、
頂いてしまえば、ついどきどきしてしまいます)
盆栽の桜の花にはあまり、そうした思いを覚えません。
潔さが違う、とでも言ったらいいのでしょうか。
これがマニアともなると、また違った思いを抱くものなのでしょうけれど、
室内に置く鉢植えの”桜”ならば、私は「匂い桜」の方が好きです。
でも、これは本当に好みの問題ですね。
小さな木に、けなげに4、5輪の花をつけるこの盆栽の桜を、
何よりのロマンだと思う人もいるでしょうから。
それに、「鉢植え」と「花束」は、同じ贈答用植物でも、
もともと全く意味や印象の違うものですし。
同じ「桜」というだけで比べてはいけません。

さて、葉桜と言えば、先日久しぶりに読み返した、橋本治の「三日月物語」。


三日月物語

三日月物語

  • 作者: 橋本 治
  • 出版社/メーカー: 毎日新聞社
  • 発売日: 1996/09
  • メディア: 大型本



その前に読んだのは、なんと連載当時、十数年前のことです。
長年、記憶の片隅に「葉桜の君」という言葉と、
なぜ彼女がそう呼ばれるようになったかという由来だけがちらちらとしていて、
ただ、肝心の物語の名前を忘れていたため読み返すことも出来ず、
ずっと気にはなっていたのです。
でも、かといって、真剣に調べようというほどの欲求があるわけでもなく・・・。
なんとなく、そのままに。

が、最近になってまたふと、「あれは何だったのかしら?」と何度目かの疑問が湧きまして。
そのときたまたまPCの前にいたので、調べる気持ちになったわけです。
労力を使わずに「検索」が出来る現代、そういう点では、いい時代になったな、と思います。

それにしても・・・。

記憶とは、面白いものですね。
高校生の頃、なぜ自分が橋本治の「桃尻語訳枕草子」を手に取ったのかずっと忘れていたのですが、
そうそう、「三日月物語」の作者だったからです。
書店を歩いているときにその作者の名前を目にして、興味を惹かれて水平展開したのでした。

そういう(自分がなぜその本を手に取ったのか忘れている)本は、結構あります。
でも、今後も、思いもよらないところでそのきっかけを思い出すこともあるのでしょうね。

今一番気になっているのは、グレン・C・エレンボーゲン編、
「卓越した心理療法家のための参考書」を手にしたきっかけですが・・・。


星の王子さまと野菜人格―卓越した心理療法家のための参考書

星の王子さまと野菜人格―卓越した心理療法家のための参考書

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 星和書店
  • 発売日: 1987/11
  • メディア: 単行本



書店に注文して取り寄せた覚えがあるので、書店で偶然見て、ではないことは確かです。
多分、新聞の書評でも見たのでしょうけれど。

ま、いいか。
謎は謎のままで、またいずれ、思い出すこともあるかもしれませんから。

ちなみにこの「卓越した心理療法家のための参考書」、
スクエアな人が読んだら、怒るかもしれないな。
でも、以前、書店の心理学や医療書のコーナーに「間違って」置かれているのを見たことがありますが、
実は、あながち「間違い」でもないんですよね。
だって、確かこれはジョーク本や揶揄本の類ではなく、
本当に投稿された論文が元になっているはずですから(”多分”ですけど)。
もしも「真面目な顔してジョーク」がお好きな方は、お手にとってみるのも一興かもしれません。

なんだか今日は、早すぎる葉桜に寄せて季節と旬のことを書こうと思っていたのに、
いつの間にか本の話になってしまいました。。。










ラベル: 季節
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2010年03月24日

「木かげの家の小人たち」/青いガラスのコップ

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青いガラスのコップ。


子供は、他愛もないものに、他愛もなく、
けれども何にも替えがたい、格別な思いを抱くようになることがある。

たとえばそれは、バンドのついた黒いエナメルの靴であったり、
たとえばそれは、紺色のフェルト帽であったり、
たとえばそれは、水晶玉であったり、
たとえばそれは、小さな銀色の鈴であったり、
たとえばそれは、白いレースの幅広リボンであったり。

大人からすれば、どうしてそんなものに執心するのか、
なぜ茶色のフェルトではだめなのか、
なぜ水色のサテンのリボンでは代わりにならないのか、
赤いエナメルの方が似合うのに、どうして黒に執着するのか、さっぱりわからない。
貝殻のイヤリングより、珊瑚と金で出来たハートのネックレスの方がどう見ても可愛いのに、
どうしてそちらを欲しがるのか、見当もつかない。

”大人”には、わからない。
けれども、子供にしてみたら、簡単だ。
根拠があるのだ。

そしてそれは大抵、「物語」という形をとっている。

大好きな物語の主人公が、いつもそれにこだわって使っていたガラスペン。
物語の中の不思議な女の子が、「それは素敵な、小さな銀の鈴になるわ!」と叫んだエピソード。
物語の主人公が憧れる深窓の令嬢が履いていた、
ぴかぴかのエナメルのシューズと足首のところで折り返したレースのソックス。
たっぷりひだをとった上着の素材はタフタで、首のところにはポンポンが踊り、
コートは赤のマント型で縁には茶色の毛皮の縁取りがある。

空想好きな幼い子供が物語の世界に触れるとき、そこには必ず癒着が起こる。
本を置いて、現実の世界に帰ってきても、既に物語は体の一部になっており、
だから物語の通りにしたら、物語の世界と同じことが起きると信じて疑わないのだ。

いぬいとみこの傑作童話、「木かげの家の小人たち」を初めて読んだ頃、
しかし残念ながら、私には分別が育ち過ぎていた。
おそらく8、9歳だったろう、しっかりと「子供の領分」に根付いてはいたが、
「小人」なるものを手放しで信じてしまうだけの力は、さすがにもう残されていなかった。

けれども。

空色のガラスのコップにミルクを注いで窓辺に置いておくと、
小人たちがそれを汲んで持っていく。

分別が育ってしまっていても、子供は子供。
半分物語の世界に生きていたような私にとって、それは甘美過ぎる想像だった。

だが、時代は過酷である。
当時は、「食器」というものが、まだかろうじて特別なものであった時代だった。
子供が黙って食器棚から持ち出していいものではなかったし、
そもそも青いガラスの足つきコップなどという洒落たものは、普通の家にはまずなかった。
(コップは基本的に透明か、透明の地に模様が入っているかのどちらかだった。
しかも、どれもこれも、ペアかセットで。)
また、欲しいからといって、子供が気軽に買えるものでもなかった。
今ならば、僅かなコインと少しの根気さえあれば、
青いガラスのコップなど(デザインはともかくとして)、
子供でも簡単に、親の許可さえなく手に入れることが出来るだろう。
今の世には、100円ショップなるものが、どこにでもあるのだから。

物語の主人公と違い、当時の私は、牛乳なら毎日簡単に手に入れることが出来た。
そのため余計に、物語を繰り返し読みながら、私は残念でたまらなかった。
分別という靴を履いて背伸びしたがる私の心を押しのけるようにして、
子供の本音が囁いた。

―――もしも、青いガラスのコップがあったなら。

私がもう少し幼かったら、きっと「青いガラスのコップ」は、
私の「格別アイテム」になったに違いない。
そして、誕生日に何が欲しい?と聞かれたら、
「青いガラスのコップ」と答えて親を不思議がらせるのだ。

とは言っても、何にも格別な思いを抱かない年頃になっていたという意味ではない。
相変わらず花の形の風鈴は欲しかったし、エプロンドレスにも、スケート靴にも憧れた。
(まあ、そうした「憧れの具現」は、大人になっても消えないというか、
違った形を伴って成長していってしまうだけのものではあるけれど。
数多あるタイプ別ファッション誌や「○○風ヘアスタイル」、
ムック本「紳士の小道具」といった文化が何よりの証拠でしょう。)
でも、それなら単なる憧れの具現だし、私の中の背伸びした分別とも矛盾しない。
だが、青いガラスのコップは。

「子供est」と、「子供er」の狭間にあった私にとって、
「青いガラスのコップ」は、そういう微妙な位置づけにある品物だったようだ。

けれども不思議なもので、私は未だに、
小人たちがいるのではないかと、心のどこかでは信じているらしい。
七十七日間ミルクを置き続けたら、小人たちに会えるのではないかと、
その思いを捨て切れないまま大人になってしまったようである。

それが、「非現実的」であることはわかっている。
曲がりなりにも現代人であれば、生物や物理、進化学や発生学といった、
「そのような小さな人間が存在するわけがない」と目覚めさせられるだけの
「理論」と「分別」を、悲しいことに身につけてしまっている。
月に兎がいないのと同じように、ロマンの欠片もない「学問」という分別が。
(ケプラーが「ソムニウム」を書いた頃には「学問」がロマンのかけ橋でもあったことを思うと、
なんとも奇妙な感慨に襲われるが。)

だが、分別が育っても、童心は残る。
それと、詩心と。

大人になって、蚤の市で初めて買った、アンティークの小さなグラスたち。
その中に、デザインこそ違えど青いガラスのコップが含まれていたのは、きっと偶然ではない。

熱を出した幼い日、少し熱が下がって気分よく目覚めたときに、
枕元の冷めてしまったホットミルクの残りが昨夜よりも減っているように見えた朝。
水仙月の四日には、雪童子が駆けてくるのではないかと吹雪の中を振り返る夕暮れ。
銀河鉄道の音が聞こえたような気がして、耳を澄ます夜。

それをさせるのは、理屈ではない。
理論武装で来られたら、当然負けるのは重々承知である。
そもそも、自分の中の分別も、それはファンタジーだと認識しているし、
迂闊にそんなことを口にして”不思議ちゃん”呼ばわりされるのもまっぴらだ。

でも、微かに、心のどこかでは、そうした世界にずっと繋がっていたいと思う。

私は信仰というものを持たない人間であるけれど、
もしかしたら、童心、あるいは詩心というものは、
信仰に非常に近いところに位置しているのかもしれない―――


などと、ちょっと穿ったことを思いながら、今回も懐かしい物語の扉を閉じたのでした・・・。


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冒頭の画像は、先日買い直した中古の新書版です。
子供の頃持っていたのは、繁る木の葉のカバーイラストが綺麗な単行本でしたが、
残念ながら散逸してしまったので、再購入しました。
なお、本の内容についてももうちょっと書こうかと思ったのですが、
それはまた後日、別の児童書と絡めてご紹介しようと思います。









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2010年03月13日

「アレクサンドリアの風」

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石造りのカフェー、甘くて熱い紅茶、薄いネスカフェ、氷なしのレモンスカッシュ。
パラソルとテーブル、白く乾いた海岸通り、道路に寝そべる白い犬。
こんな夜は、「アレクサンドリアの風」のページを開く。
扉の向こうから、砂とスパイスを食んだ白い風が吹いてくる。

三月。

私の心は、砂漠と海と、黒い水を求めて騒ぎ出す。
瞼に蘇る、あの鮮やかな異国情緒。
映像よりも、心象を。
反復よりも、反芻を。
マスカット・オブ・アレキサンドリア。
瑞々しい果実は、リバーサルフィルムの記憶の中に。









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